【人物解説】日本で最初の女性法律家は誰?

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はじめに

新たに放送される朝ドラ「虎に翼」の主人公(ヒロイン)のモデルに、女性法律家である三淵嘉子(みぶちよしこ)さんが抜擢されました。

三淵嘉子さんについては、こちらの参考記事をご覧ください。

さて、三淵さんは、女性で最初の司法試験合格者であり、そうした功績もあって、この度ドラマでその人生が描かれることになりました。

もっとも、実は、我が国で初めて司法試験に合格した女性は三淵さんだけではありません。また、「女性初の弁護士」のほか、「女性初の裁判官」や「女性初の検察官」は誰なのでしょうか?

そこで、本記事では、我が国で最初の女性法律家の方々について、解説していきたいと思います。

女性初の司法試験合格者

まず、女性初の司法試験合格者についてです。

昭和初期に入って男女平等の機運が高まるにつれて、それまでは弁護士になれる資格を男性に限定していた弁護士法が1933(昭和8)年5月に改正され、その3年後の1936(昭和11)年4月の施行後からは女性も弁護士になることができるようになりました。

この改正に向けて、明治大学などを筆頭に、全体の数としてはわずかですが女性が法律を学べる大学が現れ始めました。そして、1938(昭和13)年11月に合格発表があった当時の司法試験である「高等文官試験司法科」において、3名の女性合格者が初めて誕生しました。

この時に司法試験に合格したのが、三淵嘉子さん、中田正子(なかたまさこ)さん、久米愛(くめあい)さんの3名でした。いずれも明治大学法学部の卒業生でした。

なお、女性も法律家になれるようになったばかりの1938(昭和13)年から 1950(昭和25)年までの 12 年間における女性の司法試験合格者は合計22 名であり、その内21名が明治大学の出身者でした。当時は明治大学こそが女性法律家の道を切り開いてきたと言えるでしょう。

女性初の弁護士

女性初の弁護士は、上記の女性初の司法試験合格者と同じ、三淵嘉子さん、中田正子さん、久米愛さんの3名です。弁護士登録は、司法試験合格後に1年半の弁護士試補の期間を経て、1940(昭和15)年のことでした。

三淵 嘉子について

三淵嘉子さんは、参考記事でも説明した通り、生まれはシンガポールでしたがその後東京都渋谷区で暮らし、東京女子師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学付属高等学校)を卒業しました。

明治大学で法律を学び、司法試験合格後、当初は弁護士になりましたが、その後は裁判官を志し、後述する女性初の裁判官就任の直後に、「女性で2番目の裁判官」として東京地裁民事部に配属されました。そして、「女性初の判事」となり、また、「女性初の裁判長」にも就任しました。家庭裁判所での勤務が長かったこともあり、家事事件・少年事件にとても力を入れていらっしゃいました。

中田 正子について

中田正子さんは、東京都文京区の出身であり、東京府立第二高等女学校、女子経済専門学校を卒業して、日本大学に入学した後、法律を学ぶため明治大学に編入学しました。大学時代の同級生として三淵さんがいます。

司法試験合格後に1939(昭和14)年に中田吉雄さんと結婚し、弁護士となってから数年経って、夫である吉雄さんの出身地の鳥取県に、自らの名前を冠した法律事務所を開設されました。その後、「女性初の鳥取県弁護士会会長」、「女性初の弁護士会会長」にもなりました。

久米 愛について

久米愛さんは、大阪府の出身であり、夕陽丘高等女学校、津田英学塾(現在の津田塾大学)を経て、明治大学に入学されました。同大学では三淵さんや中田さんの一つ下の学年だったので、在学中の受験でしたが、二人と同じ年の司法試験に合格し、その後弁護士となりました。

女性の地位向上に積極的に取り組まれ、1950(昭和25)年に「日本女性法律家協会」(当時は「日本婦人法律家協会」)を設立し、同協会の初代会長となりました。その後、26 年間にわたって同職を務められました。この協会は、女性の裁判官、検察官、弁護士、法学者から構成される会員800名からなる全国組織の団体であり、1950年に設立されました。男女平等の実現等のために、講演会を実施したり、憲法論にまつわる提言を行ったりしています。

さらに、市川房枝さんと共に女性の政治参加を促進する運動を牽引され、国連総会にも日本政府代表として多数回にわたって参加されました。

女性初の裁判官

実は、上記の弁護士法改正の以前から、裁判官や検察官については、弁護士のような「男子たること」という法律上の定めはありませんでした。

しかし、司法修習生(当時は司法官試補)採用の告示において、男性に限定する旨の規定があったため、弁護士法改正後も、この規律により女性が司法官である裁判官や検察官になることは許されませんでした。その理由としては、明治民法の規定上、女性は婚姻により夫の許可がない限り法律行為について無能力者となるので、いずれ結婚する女性に司法官のような重要な仕事は任せられないという説明がされていたようです。現在では考え難い理屈のようにも感じますが、実際にこうした解釈がされていたことは知っておくべきでしょう。

このような経緯により、女性が初めて裁判官になれるようになったのは戦後の1949(昭和24)年のことでした。

そして、この年に女性で最初の裁判官となったのが、石渡満子(いしわたみつこ)さんという方です。女性で最初の司法修習生となり、その後、1949(昭和24)年5月に東京地方裁判所の判事補に就任されました。

石渡 満子について

石渡さんは神奈川県逗子市(当時は横須賀市桜山)の出身で、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を卒業されました。しかし、最初の学生時代は法律を学んでいたわけではなく、三淵さんらより少し遅れて明治大学に入学され、1944(昭和19)年3月に同大学を卒業しました。

その後、卒業の翌年の1945(昭和20)年に司法試験に合格しました。一方で、戦争も終わりを告げて、男女平等の時代が訪れていたため、女性も裁判官になることが認められるようになったのでした。

任官後は、東京地裁や横浜地裁、静岡家裁などで勤務され、定年退官後は故郷に戻って弁護士としても活躍されたそうです。

女性初の検察官

女性初の検事は、門上千恵子(かどがみちえこ)さんという方でした。石渡さんとともに女性で最初の司法修習生を経て、1949(昭和24)年7月に検事に任官されました。

門上 千恵子について

門上千恵子さんは、愛媛県伊予郡(現在の松前町)の出身で、松山高等女学校(現在の松山南高校)を卒業後、広島県立女子専門学校に進学されました。門上さんも当初の専攻は法律学ではなく国文科でしたが、その後1936(昭和11)年4月に九州大学(当時は九州帝国大学)の法文学部に進学しました。当時、帝国大学で女性の入学を認めているのは東北帝国大学、九州帝国大学、北海道帝国大学のみで、限られた選択肢しかありませんでした。

九州大の法文学部でも法律学科では門上さんが最初の女子学生でした。その後、1939(昭和14)年3月に同大学を卒業してから、一時期は林野高等女学校の教諭や九州大の法律学研究室の助手等として勤務され、1943(昭和18)年7月に司法試験に合格されました。

終戦後、法務省に入ってから、1949(昭和24)年7月に女性初の検事となりました。検事になったのは社会悪と戦いたいとの思いからであり、迷わず選ばれたそうです。

石渡さんらとともに婦人人権擁護同盟を結成し、女性のための法律相談等を行ったり、女性犯罪にまつわる書籍を出版したり、検察官を退官した後は、90歳過ぎまで弁護士として働かれたり、女性法律家として幅広く活躍していたそうです。

まとめ

現在は、女性の社会進出が認められるようになって久しく、法曹の世界でも多くの女性が活躍されていますが、当時はいくら男女平等が法的に認められるようになったからといって、実際上は多くの困難があったことが想像されます。そんな中、彼女たちのように、時代を切り開いて女性法律家の道を先陣切って示してきた方々には、たいへん感銘を受けます。

では、現在の日本の法律家の男女比はどうなっているでしょうか。最新の情報にご関心がある方は、併せて以下の記事もご覧ください。

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