【人物解説】朝ドラ『虎に翼』のヒロイン、「猪爪寅子」(三淵嘉子)って誰?

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はじめに

皆さんは、2024年春から新たに放送される朝ドラ「虎に翼」の主人公(ヒロイン)のモデルをご存知でしょうか?

ドラマでは、主人公の「猪爪寅子」役を女優の伊藤沙莉さんが演じられていますが、実は、そのモデルとなったのは三淵嘉子(みぶちよしこ)さんという方です。

三淵嘉子さんは、第二次世界大戦中の混乱期を生きながら、日本で最初の女性弁護士、女性裁判長として活躍されました。そのため、弁護士のためのメディアである弁護士学園が取り上げないわけにはいきません。

そこで、本記事では、この三淵嘉子さんという人物について、わかりやすく解説していきたいと思います。ドラマを見て興味を持たれた方は、ぜひこの記事を読んでいただけると幸いです。

経歴

まず、三淵嘉子さんの経歴をざっとまとめてみましょう。(年表は後述)

父の仕事の関係でシンガポールで生まれ、その後帰国して一家で東京都渋谷区に暮らしていました。そして、東京府青山師範学校附属小学校、東京女子師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学付属高等学校)で学生時代を過ごしました。

戦前になって男女平等意識が高まるにつれて、女性も法曹になることが認められるようになり、当時で唯一女性も法学部に入ることができた明治大学を目指しました。卒業後には、女性で最初の司法試験(当時は「高等文官試験司法科」)合格者として弁護士登録されました。なんと合格順位は第4位だったそうです。

その後、戦時中の混乱もあって弁護士業務がままならない時期は、出身大学で未来の女性法律家を育てるため、専門教育に従事されていました。

戦後に入り、さらに男女平等な社会が訪れ、裁判官になろうとしましたが、やはりすぐには女性の採用が許されず、いったん司法省に入って、家事審判等の立法作業に関わったり、家族法を扱う家庭局に勤めたりして家族法分野での経験を積まれました。

そして、1949(昭和24)年に我が国で2番目の女性裁判官として判事補に任官され、その後1952(昭和27)年に最初の女性判事となり、さらに1972(昭和47)年からは最初の女性裁判長となり、女性法律家の道を先頭に立って切り開いていきました。

この間、主として家庭裁判所に長く勤務され、司法省内での家族法分野における経験という背景もあってか、家事事件や少年事件に情熱を注がれていました。

定年退官後は再び弁護士として活動され、1984(昭和59)年5月28日に享年69歳で多くの方に惜しまれつつこの世を去られました。

家族について

次に、プライベートな側面に目を向けてみましょう。三淵嘉子さんの家族についてです。

東京帝国大学を卒業し、台湾銀行に勤務していた父・武藤貞雄さんは仕事で世界を飛び回っていました。そして、幼い嘉子さんに対し、「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな」「何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」などと伝えていたそうです。

一方で、母・ノブさんは、「法律等を勉強しては嫁の貰い手がなくなる」と泣きながら法学部への進学に猛反対したそうです。対照的なご両親の態度からは、当時の女性の社会進出に対する世間的な風当たりの強さと、父母それぞれの我が子への愛を、伺い知ることができます。

弁護士になってから、同じく明治大学卒で実家に出入りしていた和田芳夫さんと1941(昭和16)年11月5日に結婚し、翌々年には第一子の芳武さんをもうけました。しかし、夫の芳夫さんは戦争に召集され、終戦後、上海から引揚途中の長崎で病死してしまいました。

三淵という苗字は、その後裁判官に任官してから、1956(昭和31)年8月に三淵乾太郎さんと再婚したことによるものです。乾太郎さんも、最高裁調査官や浦和地裁の裁判長を務められたエリート裁判官であり、その父はなんと、初代最高裁長官の三淵忠彦さんでした。乾太郎さんも前妻を病気で亡くしており、当時から既に1男3女の子持ちであったそうです。そのため、最終的には2男3女の母だったことになります。

法律家として

家事事件・少年事件に対する思い

続いて、三淵嘉子さんの法律家としての側面に目を向けてみましょう。最も特徴的なのは、やはり家事事件・少年事件に対する情熱です。

三淵嘉子さんはそのキャリアの後半を長らく家庭裁判所で過ごされました。東京家裁で10年近く少年審判を経験し、その後は新潟、浦和、横浜と各地の家庭裁判所で所長を務められました。

初めて東京家裁少年部に異動になった頃のことについて、以下のように語っています。

あのころの、東京家裁の少年部は、少年のためにという使命感にあふれ、私も少年事件に情熱を燃やしました。裁判官としての私の人生にとって、悔のないありがたい経験をさせて頂いたと思っています。

「法曹あの頃―第五四回 三淵嘉子氏に聞く女性裁判官第一号―」法セ303号

当時は、新たな憲法に基づいて最高裁判所が設置され、少年事件・家事事件を扱う家庭裁判所ができたばかりの頃でした。社会情勢もあってか少年犯罪なども増加していた時期であり、家庭裁判所には、少年事件に対する熱意を持った人が多くいたそうです。三淵さんも例外ではなく、そうした環境でご自身も情熱的に事件にあたっていたのでしょう。

家庭裁判所の発足にあたって掲げられたスローガンは「家庭に光を少年に愛を」というものでした。法律の世界でも「福祉」的な色合いの強い家庭裁判所に長くいらっしゃったこともあって、三淵さんもそうした福祉的な信念を有する裁判官であったことがうかがわれます。

また、現場の最前線の立場から、家事事件や少年事件のあり方についても深く思慮されていたことが残された三淵さんの言葉から明らかになっています。

たとえば、少年法改正の折には、少年事件でしばしば問題となる適正手続との関係について、以下のような言葉を残しています。

審判官の独善を許さぬ、少年の為により適正な新しい少年審判を創り出すことが、次の世代の家庭裁判所の任務であると私は信じて已まない。

三淵嘉子「次の世代の少年審判」ケース研究169号1頁

ほかにも、当時から少年事件にはその背景に家族間の問題が潜んでおり、同じ家庭裁判所内で家事事件を扱う家事部と少年部が連携することの必要性が指摘されていましたが、三淵さんもそうした制度論について話し合う座談会に参加され、最前線を知る立場から積極的な議論をされていたようです。

このように、三淵嘉子さんは女性初の判事であるのみならず、少年事件・家事事件の専門家として、戦後の激動の時代において、我が国の家庭裁判所実務を引っ張ってきた存在であることがわかります。こうした法律家としての活躍があったからこそ、ドラマでも主人公に抜擢されたものと考えることができそうですね。

まとめ

最後に、これまで述べたことを年表にまとめると、以下のようになります。

年月日できごと備考
1914年11月13日誕生@父の転勤地シンガポールにて
1920年日本へ帰国 
1929年明治大学専門部女子部法科 創設1933年の弁護士法改正を見据えたもの
1932年3月東京女子師範学校附属高等女学校 卒業 
1932年4月明治大学専門部女子部法科 入学 
1933年5月弁護士法改正女性も弁護士資格を取得できるように
1938年3月明治大学 卒業 
1938年11月1日高等文官試験司法科 合格ほか2名と共に女性初の合格者
1940年6月弁護士登録(第二東京弁護士会) 
1940年7月明治大学専門部女子部法科 助手 
1941年11月5日和田芳夫と結婚 
1943年1月第一子(芳武) 誕生 
1944年8月明治大学専門部女子部法科 助教授 
1946年5月23日夫の芳夫が病死 
1947年3月裁判官採用願 提出当初は任官が許されなかった
1947年6月司法省民事部へ東京控訴院長の計らいで勉強
1947年11月明治女子専門学校 教授 
1949年6月東京地裁民事部 判事補女性で2番目の裁判官
1951年4月明治大学/短期大学 兼任教授 
1952年12月名古屋地裁 判事女性初の判事
1956年8月三淵乾太郎最高裁調査官と再婚乾太郎は初代最高裁長官三淵忠彦の長男
1963年3月東京家裁少年部 
1972年6月新潟家裁 所長女性初の裁判長
1973年11月浦和家裁 所長 
1978年1月横浜家裁 所長 
1979年11月13日定年退官 
1984年5月28日逝去(享年69歳) 
年表

本記事では、最初の女性法律家としてご活躍された三淵嘉子さんについてご紹介してきました。いまだ男女平等が始まったばかりの時代に、新たな道を切り開いてきた三淵嘉子さんの生涯は、まさにドラマの主人公のような人生だったといえるでしょう。

こうした背景を知ると、ドラマについても、今後の展開がもっと楽しみになりますね。なお、そのほかの職業についてもご興味がある方は、こちらの記事も併せてご覧ください。

日本の法律家の男女比について、最新のデータにご関心がある方は、こちらの記事も併せてご覧ください。

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